晩秋の森は夕暮れを向かえていた。
空は藍色を濃くし始めている。
気温も下がり、濡れた衣服から急激に体温を奪い始めた。
私は今年デビューしたばかりの新米猟師だ。
とは言っても、免許を取ったばかりのという意味で。
都会暮らしの私にとって、猟師は大自然と触れ合い、食とじかに向き合う憧れの職業だった。
きっかけは、亡くなった祖父母の家を父親が引き継いだことにある。
長野の山奥にある家、土間の広いがっしりしたつくりの家だ。
父親も高校生までこの家で育ったのだ。
しかし、山奥のため、今は過疎化が進んでおり、住人も数えるほどだ。
こんな場所の家を父親が引き継いだが、移住するわけでもなく、放置されていたため、アウトドア好きの私が休日に別荘代わりに利用することにした。
祖父母の孫ということもあり、山村の住人は快く受け入れてくれた。
そして、私は山村生活を充実させるために狩猟免許を取得したのだ。
まだ銃を所有していない。
罠猟から始めるつもりなのだ。
山村の60代以上の男は、大半が狩猟免許を持っていた。
冬は狩猟生活で、森や田畑を荒らすシカやイノシシを捕獲し、生活の足し(もしかすると赤字)にしている。
何よりも、肉は貴重なタンパク源なのだ。
30代の私が狩猟免許を取得したことを、村人は喜んでくれた。
「まずは山を知ることだ。狩猟期間が始まるまで、可能な限り山に入って獣を感じることが大切だ。どこを通り、どこで食べて、どこで糞をして・・・。、まずはそこからだ」
地元のベテラン猟師の言葉に従い、この山村の家にいるときは、雨天も気にせず山に入った。
GPS機能のついたスマホやタブレットは強い味方だった。
これさえあれば迷うことはない。
活動記録もデータ化できた。
その日、いつもの休日通り私は一人で山に入った。
獣道を探し、藪を漕ぎながら進むのも慣れたものだと自画自賛していた。
いつもより奥まで進んだ。
そして、小さな沢を渡ろうとした。
と、その時、不覚にも沢の中の浮石を踏んでしまい、水の中に落ちてしまった。
小さな沢なので大したことはなかったが、服が濡れ、スマホとタブレットは使えなくなってしまったのだ。
私はいまどこにいるのか?
今まで機材に頼って山に入っていた私は、途方に暮れた。
安全に帰れる自信がないのだ。
元来た道を戻れるだろうか?
いや、藪の中をGPSを見ながら進んでいたので、周りの景色を明確に頭に叩き込んでいたわけではない。
どうする、どうする。
そうだ、沢伝いに山を下りて行こう。
水量のあまりない沢は、ひざ下まで入るだけで進むことができた。
機材が役に立たなくなるだけで、耐えられないくらいに心細い。
普段は何とも思わない鳥の声や、藪がガサガサ音を立てるだけで心臓がちじみ上がる。
何が猟師だ。
自分が情けなくなる。
もう1時間ほど沢を下っただろうか。
まだ私の記憶にある景色には出会えない。
その時、左側の笹薮が大きな音を立てて揺れた。
心臓が破裂しそうだ。
何かが沢に向かって降りてくる。
私は緊張のあまり身動きできず、身体がこわばってゆくのを感じた。
笹薮が大きく揺れ、姿を現したのはイノシシだった。
大きさは、私の膝丈くらいか。
相手も私を見て驚いた様子だ。
日も暗くなってきた。
イノシシの背中に白い線が見える。
ウリ坊だ、まだ子供だ。
しかし、牙が夕闇の中白く不気味に光る。
そういえば、猟師が言っていた。
「イノシシは子供だと言って油断するな。その牙で膝を突かれるぞ」
私は沢の中を、じりじりとあとずさりした。
ウリ坊はじっとこちらを見つめている。
5メートルほど後退ったとき、再び笹薮が大きく揺れた。
親がいるのか?
頭の中がパニックになる。
そのままゆっくりとゆっくりとあとずさり。
しかし、目はウリ坊と揺れる笹薮しか見えない。
耳は笹薮のざわめきしか聞こえない。
のどがへばりつき、呼吸が荒くなる。
何メートルあとずさりしただろうか、不意に視界から小さくなったウリ坊が消え、
身体が宙に舞った。
そして水の中へ。
ザブン、ボコボコという水音と、冷たい水温で意識が戻った。
沢は小さな滝となって川に流れ落ちていたようで、私はその川に落ちたのだ。
水深はさほどなく、足が水底についた。
何とか川岸までたどり着くと、集落の明かりが目に入った。
見覚えある風景だ。
どうやら、私は山の中をぐるりと回り、自分の家があるの集落の近くに戻ってきて、近くを流れる川に落ちたらしい。
そこに流れ落ちている小さな滝というと・・・
私の家の間近ではないか。
こんな無様な姿を村人に見せるわけにはいかない。
幸いに、すでに日は暮れている。
私は急いで我が家に戻った。
風呂に入って一息ついた。
ようやく落ち着いて今日一日を振り返った。
私は自然を甘く見すぎていたようだ。
確かに文明の利器は便利だ。
しかし、それに頼って立ち向かえるほど自然は甘くなかった。
自然に向き合う自分の気持ちがいい加減だったので、山の神様にお灸を据えられたのかもしれない。
これで猟師をあきらめるのか?
いやだ。
もっと、自然に溶け込んで、ここで、自分の祖父母の土地で生活してみたいと真剣に感じたのであった。
明日は山の神様に挨拶に行くことにしよう。