創作の森に迷い込んだカエルの話

写真家、小説家などの創作活動にあこがれるカエルが、ふとしたきっかけで富士山の麓にある創作の森に迷い込んでしまったお話

ショートショート「山椒魚」

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「山椒魚」

山里の清流、さして広くない穴の中に山椒魚が住み着いてどのくらいの時が経過したであろうか。

山椒魚自身に時間を認知する能力が備わっているか否かはわからないが、その大きな体格からしてそれなりの時間が経過していると推測される。

 

そんな彼の巣穴に、一匹の魚が迷い込んできた。山椒魚の体臭に惑わされて引き込まれたわけでもあるまいに。

普段の住みなれた清流の、凛と張り詰めたような無味で引き締まるような感覚を与える水とは違い、この場所はともすれば生暖かく独特のまどろんだ感覚、そして匂いで満たされている。

戸惑いを見せる魚は、入ってきた入り口を見上げた。何となくではあるが、危険が含まれているような雰囲気で満ちていることは魚にも想像できたようだ。

 

山椒魚の香りは本来植物の山椒とは異なる独特の臭さで、外敵に襲われたときに皮膚から出す粘液の匂い。決して山椒の香りではないという。

魚が迷い込んだ山椒魚の巣穴は、この山椒魚独特の体臭が染みついているのだろう。

何せ、山椒魚がここから出ることなく長い間暮らしているのだから。

 

その時、ゆらりと大きく水が動いて大きな黒いものが薄明り差し込む入り口を塞いだ。

狭い空間を暗闇が支配した。

「ようこそお越しくださいました、私の住まいへ」

暗闇の中で光る小さな二つの光、そこから低く曇った声がした。

「私はこの住まいの主、山椒魚です。お越しいただきありがとうございます。どうかゆっくりしていってください。お客様なんて久しぶりなものですから」

山椒魚は丁寧な言葉遣いで、迷い込んできた客である魚を歓迎した。

 

声を掛けてきた相手の正体が山椒魚だとわかり、魚は少し落ち着いたのか会話をすることにした。

「お一人ですか、ですと?」

山椒魚は魚の問いに答えた。

「なかなか鋭い観察眼をお持ちの方だ。ご察しの通り私はここに一人で暮らしているのです。もうだいぶ前のことになりますが、この穴に入り込みうたた寝をしておりました。すると、あなたのような訪問者が次々と訪れてきましてね、この穴の外の世界よりも居心地が良いのでしばらくここに留まっていたのです。何せ楽をさせてもらって食べて寝ての生活を続けておりましたので、気が付いた時には体が大きくなってここから出られなくなってしまったのです」

 

山椒魚が体位を変えたのか、再びゆらりと水が動き、束の間薄日が差し込んだ。声の主の体はこの巣穴の広さにしてはかなり大きい。

「寂しくないですかって?」

 久しぶりの客との会話に山椒魚の機嫌はすこぶる良い。

「全然そんなことございません。訪問してくれる方も度々ありますし、あなたが入ってこられた入り口から薄日が差し込むので昼と夜の区別もつくのです。それに、水の流れの音は心を穏やかにしてくれますしね。案外快適なのです」

 

再び水の動く気配がして、今度は山椒魚の声が魚の間近で聞こえた。

「食事はどうしているかですって?」

 山椒魚は次第に魚に体を寄せてくる。

「心配ご無用、捕りに行かなくても向こうからやってきてくれるのです。でもね、最近この住居の外の世界でこの場所の良からぬ噂が広まったのか、以前よりも訪問してくれる方が減ってきているのですよ」

 

山椒魚の吐く息が魚にかかる位置まで来た。

「大変ですねって、ですと?」

 山椒魚は暗闇の中で笑い声をあげる。

「あなた同情してくれるのですか、それはありがとうございます。本当に親切なお方で。それではご厚意に甘えさせていただき、久しぶりの食事とさせていただきます」

山椒魚の頭が魚の体に触れる。

 

「食事はどこにあるのかですって?」

山椒魚に行く手を完全に阻まれた魚はすでに身動きが取れなかった。

「観察眼の鋭いあなたならもうお気付きでしょ、この住まいを訪問してくれた目の前のあなたですよ。本当にお越しいただいて感謝しております」"

そう言うと、山椒魚はその大きな口を広げて一口で魚を飲み込んだ。

 

山椒魚は久しぶりの食事を堪能した。

満腹感で満たされると睡魔が襲ってきた。

眠りに落ち込むその時、半覚醒状態の中で彼の脳に住むもう一人の山椒魚が訊ねてきた。

「満足か」

もちろんだ。久しぶりの食事、これでしばらくは空腹感に悩まされることもない。

また新たな獲物がやってくるまで、この薄暗い穴の中でじっと身を潜めて待つだけだ。

もう一人の山椒魚が続ける。

「お前が食えば食うほどその場所から逃れられなくなる。お前は生涯その狭い空間で生きて行くしかないのだ」

うるさい、そんなことは分かり過ぎるくらい分かっている。今更ここから出ようとも思わない。

ここから出られなくとも俺は不幸であるとは思わないし、幸福でもない。淡々と生きているだけだ。おれが住むこの場所は俺にとって生きやすい場所なのだ。

もう一人の俺が俺に何を問いかけようと、俺は生物としての本能で、食べて行かなければ生きて行けないことを知っている。

その結果として他の生き物の命を奪う。これは命を繋いで行くためには必然の行為なのだ。

俺の場合、生きて行く過程の中でこの穴に入り込み、たまたま出られなくなっただけだ。

それでもこの場所で、他の命を奪い食べて続けて生きて行く。この行為自体は善でも悪でもない、ましてやカルマでもない。生物としての本能がもたらす必然的な行動をとっているだけなのだ。

そして俺はこの場所で、一つの生物として生き死んで行くだけ、それが定めだ。

難しい問答など無用だ。

食べたから眠る、そして次の獲物を待つ、最終的に天命により死期が来たら死ぬ。

ただ、それだけだ。

小賢しい問答など俺が生きて行く上で全く必要ないものだ。

眠りの邪魔をするな、黙っていろ。

そうして山椒魚は満足し、深い眠りについた。