創作の森に迷い込んだカエルの話

写真家、小説家などの創作活動にあこがれるカエルが、ふとしたきっかけで富士山の麓にある創作の森に迷い込んでしまったお話

ショートショート「せんべいの法則」

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「せんべいの法則」

 

 ある日、帰宅時の電車の中でその感情は突然俺の脳細胞の中に湧き上がってきた。

「せんべいが食べたい」

 少し焦げた香ばしい香り、バリっとした歯ごたえ。口の中でかみ砕くと、バリバリボリボリと心地よい破壊音が脳細胞に直接響いてくる。そして、香ばしい醤油味は口の中いっぱいに広がり、時間の経過とともに甘みが加わってくる。

 そして飲み込む。その後、口の中と鼻の奥に醤油の香りが残り続け、呼吸と同時にせんべいを食べた余韻に浸ることができるのだ。

 今俺は頭の中で、せんべいを食べるという行為がこれほどまでに明確にイメージできる程になってしまった。

 

 とにかくせんべいを食べたくて仕方がないのである。

 電車の中で、吊革につかまって本やスマホを眺めているようなゆとりはないほどに、頭の中を完全にせんべいが支配していた。

 これから家に着くまでの間、せんべいを購入するチャンスは一度しかない。乗換駅の構内に小さなコンビニエンスストアがあったはずだ。そこにせんべいはあるはずだ。

 しかし、帰宅ラッシュの電車の中でせんべいを食べるわけにはいかない。バリバリボリボリというせんべいをかみ砕く音は、周りの乗客の顰蹙を買うことは目に見えて明らかだ。

 家に着くまでの辛抱だ。

 

 人は脳細胞が一つのことに集中していても、無意識にルーティンの行動を続けることができる。

 ふと気が付くと、電車をすでに乗り換えて座席に座っている自分がいた。

 なんということだ、せんべいのことをあまりにも集中して考えていたために周りが見えず、今日せんべいを購入することができるラストチャンスを自らつぶしてしまったのだ。

 今晩は自宅にせんべいがない限り食べることはできない。

 自宅のある最寄り駅は、まだ田畑が残る郊外、というよりは田舎でそこから自宅まではコンビニエンスストアはない。この当たりのスーパーはこの時間はすでに閉まっている。せんべいを購入する場所は残念ながらないのだ。

 

 自宅に着くと、いつもの通り夕食が準備してあった。

 まず風呂に入る。

 そして食卓に着き、妻に尋ねてみた。

「せんべいってあったっけ?」

 カキピーならあるという返事。

 ビールをグラスに注ぎ、おもむろに柿の種を口に放り込んだ。

 「違う」

 俺の欲しいものはこれではない、似ているが全く違う。

 だがその晩はビールの酔いとともに、幸運にもせんべいに対する強烈な欲求は徐々に脳細胞の奥深くに沈んでいったのである。

 

 サラリーマンの朝はあわただしい。

 通勤電車も帰りと違い超満員である。

 せんべいへの欲求はすっかり忘れていた。

 仕事中も、「せんべいを食べたい」という感情が猛烈に湧き上がってくることはなかった。

 

 ところがである、会社を出た途端、全く昨日と全く同じように

「せんべいを食べたい」

 という感情が噴火のごとく湧き上がった。

 本当に昨日と同じなのである。

 自分の脳細胞にゆとりが生まれると湧き上がってくる感情なのだろうか。

 だとすると、現在の俺は今純粋にせんべいを食べたいのだ。本当に純粋にせんべい食べたいのである。

 この単純で意味不明な情動、自分はおかしくなってしまったのか?

 それとも誰かに暗示をかけられてしまったのか?

 

 せんべいのことで占領されてしまった頭の片隅で俺は考え続けた。

 何故だ、この感情はなぜ湧き上がってくるようになったのだ。

そして、昨日と同様無意識のうちに電車を乗り換えており、せんべいを購入するチャンスを失ってしまった。

 なんということだ、俺にとってせんべいを手に入れることと、この単純な情動を抑え込むことがこんなにも難しいとは。

 

 明日は金曜日だ。

 少しくらい遠回りをしても、帰りに絶対せんべいを手に入れよう。デパ地下にでも寄って、少し高級なせんべいを手に入れてみよう。今晩一晩何とか耐えるのだ。

 今の俺にはこうやって自分を慰めることしかできなかった。

 

 金曜日の午後、帰宅まで待たずに、いとも簡単に俺のせんべいを食べたいという感情は満たされることになる。

 せんべいは向こうからやってきたのだ。取引先からせんべいをいただいた。

 せっかくなので、3時に部署みんなでいただくことにした。

 箱から出して部署の皆に配る社員、一時場が和む。

 自分のせんべいに対する二日間の異常なまでの欲求感情を、何気なく皆に話した。

「それって、カステラの法則ですね」

 女性社員が笑いながら答えた。

「カステラ欲しい欲しいと念じると手に入る。欲しいものを強く念じると手に入るという法則で女の子は皆知っているんじゃないかしら。なぜカステラかはわからないけど」

 その時、来客対応から戻ってきた社員がショッピングバックを女性社員に手渡す。

「せんべいもらいました」

 またせんべいがやってきた。あちらこちらからクスクスという笑いが。

「ほら、カステラの法則すごい威力ですね。せんべいが集まってきたじゃないですか。私もお金持ちの彼氏できるように強く念じているんですけどなかなか実現しないんですよね」

「よし、僕は宝くじが当たるように念じよう」

 別な社員が声を上げた。

 私も、俺も。

 オフィスはしばらく和やかな「カステラの法則」談議に花が咲いた。

 とにかく俺はやっと、やっとせんべいを食べることができた。

 

 仕上げにその日は定時で仕事を切り上げ、会社帰りに少し遠回りをしてデパ地下でせんべいを購入した。

 帰りの電車のなかでは気持ちに余裕ができたのか、本を読むことができた。

 

 そして家に帰ると、妻がせんべいを買って待っていた。

「あなたが一昨日からずっとせんべいせんべいって言っていたから買ってきたのよ」

 本当に今日はせんべいが集まってくる。

 俺は満足してビールとともにせんべいをかみ砕いた。

 

「カステラの法則か」

 本当にそんな法則あるのだろうか。

 スマホで調べると確かにある。

「唱え続けると欲しいものが手に入る法則か、確かにこの二日間の俺のせんべいに対する感情は異常なものだった。真剣に食べたいと念じていたな。さしずめ俺の場合はせんべいの法則か」

 

 それにしても、よくもまあこれだけせんべいが集まってきたものだ。

 本当に神様が願いを叶えてくれたのかな。

 俺のこの思いは単純で純粋、私利私欲など関係のないものだから、神様も叶えやすかったのではないかな。

 そうだよな、金銭や名誉のような私利私欲に満ちた願いはやはり神様も叶えるのに躊躇するだろう。

「せんべいの法則か」

 声に出してみた。純粋で単純な思いを神様が叶えてくれる法則だよ。

 そんなことを考えつつ、せんべいを楽しむ俺の平和な金曜日の夜なのであった。